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2005年05月05日

JR電車事故体験記

本日はこのブログの趣旨は異なるのですが・・・
私の知り合い(キャリアインディペンデンス代表:内藤友子)が先のJR電車事故に巻き込まれ、現在入院中です。ご本人からの要望があり、その記録をここに掲載させて頂きます。

≪2005年 4月25日 JR西日本脱線事故救出お礼≫4月25日(月)伊丹駅発 9:13分発(同志社前行き)、3両目の女性専用車両後方に乗車していました。107人の方がお亡くなりになった大惨事でしたが、私は負傷者460人の中に入ります。激腹痛があり、自力では脱出することができませんでした。後、無事救出され搬送先で4時間に及ぶ緊急手術の末、命を取り留めることができました。多くの方々の手から手を経て命を取り留めることができたこと心からお礼を申し上げますとともに、紙一重で命を落とされた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。

キャリア形成の坂道を登っている方へのメッセージ≫この事故で生死の明暗を分け、私は運よく助かりました。しかし、私よりも若く、未来に夢をもっていた若者が多数亡くなりました。その人たちの無念さを思うと、私が生きている間にできること、『人間的な部分を含めたキャリア形成』を怠ってはならないと心の底から思いました。また、キャリア形成は健康であってできることで、その『スタートラインに立つために努力するエネルギー』が必要であることも入院を通して改めて再認識しました。生きていられるということはすごいことですよね。そのことが当たり前すぎて大切さに気づかなくなっている人も多いのではないでしょうか。
現在健康で、将来の進路に不安をもっている人や何から手をつけていいかわからず立ち止まっている人は、ステップアップするために「何をするのがよいか」に気づきましょう。
スピード化の時代、便利な時代になり、速いことや便利なことが良いことと思いがちで、無意識の内にいつも人から評価されることに脅威を感じているような、そんなおかしな時代です。立派な経営理念を掲げているところ、大企業であっても、幹部は保身ばかりに目が向き、本質を忘れてしまって中身が腐っている組織はたくさんありそうです。何かが起こらないとそれすらも自覚できない状態に陥っている企業を、しっかり見抜く私たちの目も大切ですね。これからの個人のキャリア形成にとって一番大切な事は、どのような嵐の時代になってもぐらつかない「自分らしいスタンス」を築きあげ、主張できることです。仕事においても、「間違っていることは間違っている」「よりよく成果を上げるためにはどういていったらいいのか」をきちんと伝えることが重要です。それは誰かに評価されることではなく、潔く、すがすがしく「自分らしい生き方」「自分自身が一番納得できる生き方」です。

≪事故の体験記録≫
●列車乗り込み出発
その日は、これからのキャリア支援を本格化するために、キャリア・インディペンデンスを大阪府庁にNPO法人申請に行く日でした。最近JRが遅れることが、常態化していたため、早めに家を出、予定より1本早い電車に乗ることになりました。列車乗車時のオーバーランに対し、乗客が口々に「こんなにオーバーするなんてめずらしいね」と話していました。私は一瞬「慣れない人かな?」と思いながら、出張の荷物を持ち、乗車しました。
●急ブレーキ停車
一旦急ブレーキがかかり、止まるかと思いましたが、あっという間に強風に吹き飛ばされたかのように、体が吹っ飛びました。もちろんどこかに摑まろうとしましたが、摑まることができない勢いでした。気がついた時には、「ドーン」という音とともに停車し、私は3両目前方、人が折り重なる一番上に位置し、止まりました。止まったと同時に人々の悲鳴が飛び交いました。自力で脱出したかったのですが、両足の感覚がまったくなく、激腹痛のため、自力で動くことは不可能でした。外傷がなかったため、(友達が下敷きになっていたであろう女の子が)、私を指差し「この人どけてー」と叫んでいました。その声が今でも耳に残っています。
●救出から搬送
なんとか列車の中から外へ運びだされましたが、外傷のひどい方や、悲鳴を上げる方がどんどん周りからいなくなり、(意識ははっきりしていて)たぶん私の搬送は遅れるだろうと思っていました。目の前には、顔面血だらけの女性が立っています。爆発するかもしれないという声が飛び交いましたが、とにかく激腹痛で、声も出せない状態でしたので救出を待ちました。自分のかばんが外に運びだされたのも目視しましたがどうにもなりませんでした。
●第一搬送先で(たぶん)一般の方のワゴン車だと思われますが、私ともう一人の(たぶん)男性の2人が尼崎の病院に搬送されました。そこで、レントゲンやCTスキャンのために、病院中をめぐりめぐりましたが、結局処置することができず、救急車で大阪の病院への搬送が決まりました。尼崎の病院では、医師、看護士もあわてふためいていて、たぶんはじめての経験ではないかと思うほどの状況でした。激腹痛はさらに増し、まったく動けない状態で、嘔吐を繰り返していました。言葉を発することが難しく、なんとか紙に家族の連絡先を書き、尼崎の病院を後にしました。
搬送から手術開始まで 大阪の病院までは、救急車の中で救急隊のおじさんが、常に「内藤さん、もう少しやがんばれ」と病院につくまで声をかけて励ましてくださいました。とても心強かったです。
●病院到着から手術開始まで
到着してから、診療台の上で、すぐに服をびりびり裂かれ、尿に管を通され、おなかの痛み、肛門から血がでていないかを確認。レントゲン、CTスキャンの手順で手早く進行しました。手術台に上がる時、(家族が間に合わなかったため)同意書を何点かとったのですが、その中で、術後「人工肛門になるかもしれない」ということ、「輸血によってエイズになるかもしれないというくだりのところは、同意ができず、「NO」と答えました。しかし、意識が朦朧とする中、印を押すことになりました。(研修医の新人10人以上だと思いますが)こちらの状態とは別世界で、苦しむ私の体の前で「笑いながら話をしていたこと」が記憶にあります。慣れっこになっているのか、集団であるからなのか理解不可能な行動です。私は彼ら彼女らにとっては、人間ではなく物体なんだと感じました。
●手術終了まで
手術終了後、意識が戻り、まず「肛門がついている」と思いました。そして家族と対面。もちろん声を発することはできず、その日はそのまま眠りにつきました。
快復経過 結局腸に穴が開き、腹膜炎を起こしていました。一週間ほどは、腸に管を通していたことと、微熱が続いていたため不自由でしたが、現在は快復しています。(快復力は驚異的なようです)ただ、胃から腸にかけて開かれた傷、腸に通された4つの管の後は、今後消えることはありません。3日ほど、フラッシュバックの症状が出て、眠れませんでした。(JRの担当者が毎日詰めていましたが、幹部の対応は心ない「申し訳ございません」の言葉を発しただけでした)その病院の看護婦さんの根底に流れている気持ちは、患者さんが「少しでもよくなることを自分のことのように喜んでくださる」そんな姿勢を感じました。本来なら1ヶ月ほどの入院が必要だということですが、私の場合は2週間で退院でした。自宅にかえってからサバイバーズギルドの症状は出ています。特に私は、大学生の就職支援をしているので、なぜ未来ある学生が死んでしまったのか?なぜ自分が生き残ったのか?これから自分に何ができるだろうか?と考えると訳もなく涙が出でてしまい、弱気になる自分がいます。
●今後の不安
確かに、肉体は快復していますし、事故以外のことでは普通の精神状態です。ただ、自分でも気づいていないくらいのショックは受けているようで、あの路線は二度乗る勇気はわいてきません。そして、亡くなられた方々の夢や希望をエネルギーに変えて、自分がどれだけ社会貢献していく力が快復するかがまだ不安です。
●カウンセラーとして
カウンセラーとして、この事故をきっかけに考えることがあります。私たちは、人の気持ちに共感するための技術を日頃から磨いています。人の気持ちは目でみることができないため、相手の気持ちにどれだけ寄り添っているかを、目で見えること、言葉で確認できることで判断しています。しかし、実際には言葉は表面的なもので、本当に共感するということは、聴いている側が、体の5感を通してしみいる状態が近い状態なのではないかと思います。今回の事故のことはあまりにも奥深すぎて、もし私がカウンセラーに話しをすることがあるとしても、どのような体験を積んだカウンセラーが受け止められるのだろうと思います。今の状態から、どのような経過を経て精神的に快復していくのかを、自分自身でしっかりみつめていきたいと思います。

キャリアインディペンデンス 代表:内藤友子
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投稿者 zikiru : 2005年05月05日 02:57

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